落ちこぼれ美大生の音楽ブログ

写実系画学生のブログ 真面目な美術関係、論述式の文章も少し。 多忙につき大体1〜2週間に一度更新の予定。 申し訳ありませんが、基本的な見解、考え、思想を異とする方の反論は受け付けません。

反証/議論とはどうあるべきか?/大切なのは「個人」ではなく「論旨」

最近痛感したのだが、ネット上では議論は成立しないのではないかとの結論に達した。

リンク等は張らずに何の話か分かる人にだけ分かればよいというスタンスで書かせてもらいます。どうしても詳細を知りたい人は僕の新旧ブログをくまなく読んでください。

はじめに断っておくが、某イラストレーターさんがご自分の発言に対して一切の不備はないという見解であるということが分かったため、事情がかなり変わった。僕が何を言おうと聞き入れないのであれば、彼個人に対して発言する必要が全くなくなったし、切り口を変えるべきではないかと思ったのである。

そもそも、彼の発言よりずっと問題がある発言をしている人はネット上にたくさんいるわけであり、もっと広義的にネット社会やネット上での議論について書くべきではないかと思い始めた。

僕が何を言っても彼をかえって刺激してしまうだけだし、彼は親交のある方のブログで、一方的な理屈で僕を批判しているようだから、もうこれ以上何を書いても意味がなく、無意味な対立にお互いの労力を使ってしまうだけではないかと思い始めた。以前、誰かから指摘されたことがあったが、何と言うか、第三者から見れば、子供の口げんかのように見えるのかもしれない。

超長文で書こうと思っていた反証、議論としての疑問点をかなり短く書いて終わりにしたい。

以前、独学について議論になったことがあった。独学についての議論は一応、見解の相違ということで大きな問題はなかったと思っている。

問題なのは、言い訳発言をされた彼が美術教育の問題点の指摘と僕の個人的な出来事を混同して批判されたこと。

僕は最初にこう発言した。

>僕のブログを読んで、感情を害されることやおかしな記述がありましたら、いくらでもご指摘いただいて結構です。ご批判、ご叱責もありがたく頂戴します。

誤解されている人もいるようだが、これはあくまで「議論のルールに基づいた論理的根拠が示せる要件」に関してである。その証拠に、その後、論理的根拠を述べるように補足している。
そして何より、自分の主張の論理性に対する自信から出た言葉である。

それに美術教育問題の論旨に対する発言であれば、僕に賛成だろうと反対だろうとそれ自体は有効な議論になるはずだと思った。

ただし、こちらの予想しない切り口で彼は発言をし始めた。個人的な事柄と美術教育問題を混同して発言されるのである。しかも、論理的な根拠はなし。それは根拠ではなく、ただの印象、感想である。

「論旨」と「個人の出来事」は切り離して議論すること。これは議論での重要なルールである。なぜなら、議論とは「論旨」についての反証、反論、代案のやり取りによって行なわれるべきものだからである。
個人の出来事、経歴を引き合いに出して議論することは一般に「個人攻撃」と言われるものであるし(なぜなら、論旨と関係ないから)、明らかに議論自体が誹謗中傷のような荒れたものとなってしまう。

それに個人の問題は「自由権」という人権にも関わるし、議論自体が普遍的な事象、論題について行なわれるべきものである。モラル、倫理的に考えれば、個人の生き方を公の場でどうこう言おうという考え自体おかしなものである。

さらに、問題だったのは、夢を目指して大学を中退したという極めて個人的な内容を引き合いに出して言い訳と発言されたこと。これは明らかに誤読と言えるほど、僕がブログで書いた内容と乖離した個人の偏見に基づく印象であり(論理的根拠とはとても言えない)、これは何人もの方から同情、または僕に送られた某イラストレーターさんへの強い批判的ご意見の中核である。

その中にはプロの画家、中学校の美術教師、高校の国語の先生も含まれていた。特に、高校の先生からはメールで、「彼の発言は非常に偏りがあり、議論としても問題があるから、きちんと注意すべきではないか。」と、ご指摘をされ、それを受け、僕は反論をするようになった。

その後、某イラストレーターさんは僕のブログへコメントし、一度注意したにもかかわらずまた、個人的な問題と美術教育問題を混同して「常に言い訳の材料を探している」とコメントしたこと。僕が留学するとかしないということを根拠をしてあげていた。これも論理的根拠とは言えないし、「論旨」と「個人の問題」を混同している自体、ルールに反するのである。

反証をいくつか箇条書きします。

>自分の思っていたものとは違った、ということを、自分の責任であったと思うならば、僕は良いと思うのですが、いつのときも「自分以外のところに問題がある」とすり替えているように思います。そこが「言い訳」ばかりだと僕が感じたところです。

僕個人の問題と美術教育問題は全く別です。僕の責任と考えたら、僕や荒木さんが指摘するような「美術教育問題」が解決するのでしょうか。仮に、僕が美術の世界に入らなくとも美術教育問題は存在し続けるわけです。

予備校であれ、美大であれ、そこは金銭と税金(美大のみ)を対価に「教育」というサービスを提供する場所です。誰かが郵便局や宅急便などへクレームして、企業の問題点、不備をブログで言及することと同じように問題を指摘している。ただそれだけです。それに加え、教育制度という政治性もあり、ことさら取り上げるべき内容ということです。

ご自分が葉書に不正な判子を押されたり、時間指定どおりに荷物が届かなかったことをブログで言及して、人から「言い訳」、「自分の責任だと思え」、「不平、不満ばかり言っている」と言われたら、多分反論するはずである。僕と同じ理由で。

>もちろん、僕にはすべてを知る事はできませんし、想像するにしても限界があります。逆に、上記のようなことを念頭に置いてしまうと、書かれた文章以上の意味を読み取ろうとしてしまい、かえっておかしな方向にいってしまうこともあります。
ネット上での発言は、公の場での発言と同義だと思っています。不特定多数の誰が読んでいるか分からない場です。だからこそ、出来るだけ正確に慎重に表現することを心がけなくてはいけません。書かれた文章から、判断するしかないのです。

既に上記の内容で取り上げています。これはただの偏見に基づく誤読が原因です。僕の文章から著しく乖離している。

>ブログ上に掲載されたデッサンや油彩を拝見した限りでは、受験は厳しかっただろうと思います。

予備校時代に描いていた作品と大学に入ってから描いた作品は全く別のものです。予備校時代の作品を見て、発言すべきです。

>こういったことを繰り返していると、結局どこへ行こうとも、いつも何かが足らない、何かが違うという感想を抱き続けてしまうのかもしれません。
自分の周りの環境を作り上げていくのも、表現に携わる人間にとっては重要なスキルのひとつだと思います。常に文句ばかり、不満ばかり言っていると、協力してくれる人はどんどん減っていってしまいます。
今、置かれた状況がどうにもならないからといって別の場所に移動しても、今の状況をどうにかすることから逃げたのでは、同じ事を繰り返すだけでしょうね。

しつこいようですが、僕個人の問題と美術教育の問題点は全く別です。「文句ばかり、不満ばかり」というのは彼の主観であり、印象です。

>欧米の入試の方法を、ある程度日本でも参考にすべきという考えはわかるのですが、大学への進学率、社会状況など、一概に比較出来ない要素が多いと思います。短時間で油彩を描いて、それだけで判断するのは、とても乱暴な入試方法かもしれませんが、美術大学に入るための唯一の方法だとしたら適応するしかありません。短時間で描いて完成しなくても、可能性を感じさせることは出来ると思います。短時間で魅力的なものが描けないのに、だらだらと時間をかけても良くなる事は少ないでしょう。入試では完成された作品は要求されていません。
それが嫌なら、欧米に留学すればよいのです。なぜ、しないのですか?写実を学びたいのであればスペインが良いのではないでしょうか?

荒木慎也さんの論文を読んでいただければ、入試方法についての反論は足りると思います。僕がスペインに留学しようと美術教育問題はなくなりません。ちなみに、スペインは現代アートが主体で、リアリズムは栄えていません。写実画家はかなり少ない。
信じられない話ですが、写実画家が一番多い国は日本だと言われているほどです。

>それを別々に見る事は難しいですよ。よほど、うまく書かないと。読む側は密接に関係しているものとして捉えます。

ただの主観であり、論理的根拠が書かれていません。議論のルールにも反します。せめて、議論上では、心のうちだけで、外側に出さないでおくべきです。

何より、残念だったのは、肝心の美術教育問題について、彼と彼のブログの閲覧者が全くきちんと議論しようとしなかったこと。僕個人に対する「言い訳」発言は注意しても個人の問題と混同してたくさんされていた。

彼の主張は僕の個人的な事柄と美術教育問題を切り離したとき一切の正当性を失う。彼が「言い訳」という主張にこだわる理由はそこにある。

僕個人を攻めたところで、社会において何のメリットがあるのだろうか。美術教育問題について話し合うことが何より重要なはずである。それは彼だって分かるはずである。

美術教師をしている人や立派な社会人のはずの人たちが、美術教育問題に対して議論せず、「言い訳」などと主張している状況に僕は非常に強いショックを受けた。

ナントカ式という美術指導法は批判されるのに、荒木さんの論文は全くご自分のブログで取り上げる気配がないし、他者のブログで僕を批判される際も荒木さんの論文は絶対に紹介しない。

これは公正ではないと思う。

以上で、彼個人を取り上げた僕のほうからの主張は僕がプロの画家になるまでしないつもりである(反論があれば別)。

僕に対する生理的嫌悪感や「むかつく」という感情によって記事は書かずに、今後は僕個人ではなく、美術教育の問題点に対する論旨を批判して欲しい。

※反論は受け付けないとしていますが、今回の記事に関しては某イラストレーターさんのみ受け付けます。議論の対象となった個人には反論、反証の権利は認められるべきですので。
  1. 2008/08/21(木) 09:09:45|
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リアリズムの宿

とんでもねえリアリズム作品を観た。

vsl04.jpg

リアリズムの宿。

「ジョゼと虎と魚たち」がお子ちゃまランチにすら見えてしまうほどの圧倒的なリアリズム。すごすぎる。

劇的なことなんて何も起こらない。超低予算映画。それなのに、とてもすばらしい。

イケメン俳優など出てこない。どこにでもいそうな不細工ダメ男2人が主役。ヒロイン役の女性もかわいいが、田舎にいくらでもいそうな感じの普通の女の子。

間の悪い会話。台詞くささが全くない、現実同様の男同士のグダグダ感丸出しの会話。演技をしているように全く見えない。

汚い旅館。田舎にいそうな、垢抜けない市井の人々。現実ってこんな感じだよね、と映画を観ていながらつぶやいてしまう。

この作品にメッセージ性も意味もない。ただ、なんとなく旅をする。そして、二人の男がいろんなことを体験していく。ただ、それだけ。

だが、その体験の共有からこそ、人間同士のつながりは生まれるのだろう。

有名な俳優や女優が演じる映画の中のきれい過ぎる姿や表情、いかにも作られた感が漂う流暢過ぎる台詞。そういうものに違和感を覚えたことがある人はこの映画を観るべきだろう。

ビデオカメラさえあれば、映画って作れるんじゃないか、と思ってしまった。たいそれたことなんて表現しなくても、現実に目を向ければ、いくらでもドラマは生まれる。そう思えた。

世の中には「写実」という言葉の意味を勘違いしているボケアーティストがたくさんいるが、そういう人はこの作品を観て少し勉強したほうがいい。


  1. 2008/08/12(火) 08:17:20|
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ジャパニーズロックの黄金期

僕の知り合いが最近、さよならしてきたり、新たなスタート地点に立った人が多いので、それにふさわしい音楽特集を。

僕はJポップは全く聴かないけど、昔はジャパニーズロックの黄金期があった。

スーパーカー、くるり、中村一義、ナンバーガール。とても懐かしいメンツだ。

スーパーカーもナンバーガールも解散。中村はバンドに移行。唯一生き残っている、くるりもメンバーの脱退、加入を繰り返している。

僕はくるりは「TEAM ROCK」まで聴いていたけど、今は全く聴いていないし、どうでもいい。

僕が高校生の頃はくるりはロック好きの連中以外は誰も知らないようなマイナーバンドだった。いまでは、メジャーになりすぎて聴く気になれない。

↓くるりの「ばらの花」は名曲。僕らの世代にとってはアンセム的な曲。初めて聴いたときは衝撃的だったな。歌われるのは別れと旅立ちについて。




↓あと、忘れちゃいけないのが、初期の名曲。「東京」。地方から東京に上京してきた経験がある人にとってはかなり共感できる曲だと思う。
今回は、個人が作ったMADを紹介。曲のイメージに見事にマッチしている。写実的な東京の情景が美しい。



↓「東京」と同じ人が作った「ばらの花」のMADも。これも悪くない。

  1. 2008/08/06(水) 21:44:52|
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匿名の悪意

しばらく前から2ちゃんねるにM嶋さんのスレッドができているらしく、覗いてみたが、嫉妬や妬みから生じる、誹謗中傷の嵐で、ひどいものである(とか、言いつつ、何度も見ている僕もどうかとは思うが)。

作品に対する全うな批評なんてものではなく、こいつを貶めてやろうという悪意しか、感じない。

おそらく、書き込みをしている連中のほとんどが、学歴はあるが、その後、作品が売れず、評価もされなかった美大芸大出身者たちだと思う。

M嶋さんやN島さんのことを下手とか言っているが、この二人がどれほど、卓越した技術の持ち主であるかさえ分からないほど、実力がないのである。
予備校で石膏デッサンをそこそこ上手く描ければ、写実は自分でもできると思い込んでいるのだろう。

相変わらず、学歴をネタにして貶めているような連中もいるし。勝てるのは学歴だけという、受験のために自分の能力を使いきってしまった東京芸大出身者だろうか。

彼らの素性や経歴が知りたいと本気で思ってしまった。彼らに対して、「その批判の精神を自分自身に向けることができたら、少しはまともな人生を送れたんじゃないのか」と言いたい。

学歴とプライドだけ一人前で、落伍者の人生を送り、粗大ゴミみたいな作品を描いている自分自身を批判したほうがはるかに批判の対象として相応しいはずである。

おそらく、2ちゃんねるであんなふうに書き込みをするようになったら、人生終わりなんだろうな。
  1. 2008/07/27(日) 10:22:34|
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利己心をコントロールすること

人間って感情的な生き物だと思う、本当に。それに、人は責任を負いたがる生き物でもない。

某氏が以前、ブログで高速道路を運転しているときにトラック運転手から煽りや危険運転によって迷惑を被ったそうである。

「トラック運転手としてのプロ意識が全く感じられない」と発言していた。

これは誤りである。危険運転を平然とするような悪質トラック運転手はただ単に金が欲しくてトラックを運転しているに過ぎない(善良なドライバーはその範疇ではありません)。彼ら(全てのトラック運転手ではなく、その中にいる危険運転をしているものたち)に「プロ意識」や「与えられた仕事における責任」などという概念を持ち出して説教しても反省など全くしないだろう。

なぜか?自分は痛くも痒くもないからだ。

だから、トラックをはじめとした商業目的の車に適応される特別な法律を作り、全ての商業トラックに前後左右に視認可能な大きさの文字で運転手の名前と所属している会社の名前の掲示を義務付ければいいのである。そうすれば、被害にあった一般ドライバーが会社や警察に容易に苦情や被害を訴えられるだろう。

当然、煽りや危険運転をする商業ドライバーに対する法律も制定し、煽りや危険運転に対する、注意や勧告、厳しい罰金や免許取り消しなどの処罰を設ければいい。

そうすれば、問題は激減するはずである。では、これまた、なぜか?法律や罰則によって、人に迷惑をかける行為をすることで、自分自身が処罰され、自分が痛い目にあうからだ。

つまり、他人の迷惑になる行為をする=自分が痛い目にあう、という利己心をうまく利用し、社会の秩序を形成するのである。

もう一度言う。人は責任を負いたがらない。それどころか、自分には何の問題も責任もないと開き直るものさえいる。

だからこそ、責任はどこまでが当人の責任であるのかを明示した上で、無理やりにでも責任を負わせられるように、強制力があるシステムの中に組み込むしか術がないのである。

利己心は世界最強の本能である。利己心をコントロールすることが何より社会の秩序をもたらす最大の方法である。
  1. 2008/07/10(木) 20:33:23|
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